寺伝には、平安時代、嵯峨天皇の弘仁12年(西暦821年)に弘法大師が国家の安全と国民の幸せを祈るために開かれた道場で、本尊不動明王及び脇侍の矜羯羅(こんがら)童子・制吒迦(せいたか)童子との御三体は、大師一刀三礼の霊像としてうやまわれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。
もとは、今の境内から南約1kmの嶽山の中腹にありましたが、正平15年(西暦1360年)足利義詮の嶽山・金胎寺城攻めに焼かれ、この時、本尊と両童子はお滝の下に移されて難をのがれました。その後どこからともなく一人の目の見えない老僧が現れて、御本尊の霊験を説き、人々にすすめて小堂を建てて日夜礼拝していましたが、たちまち晴眼となって、いずくともなく立ち去ったといいます。これは弘法大師が御本尊の霊験あらたかなことを教えられたのであると、にわかに眼病平癒の霊像として信仰されることとなりました。その後寛正4年(西暦1463年)畠山政長・義就の嶽山合戦に再び兵火にかかりついに今の場所に移り、次第に復興し今日に至っています。
古来「日本三不動の一」といわれ、俗に「眼の神様」「芽の出る不動様」あるいは「どじょう不動様」などと呼ばれてひろく信仰されていますが、商売繁盛、開運厄除、交通安全など、あらゆる祈願に不思議の御利益をいただかれる人々が多く、毎月28日の御縁日にはこれらの人々の御詣りで境内が賑わいます。
お不動様のご誓願は、人間の悩みの原因である無明(まよい)を断ち切って、ほんとうの幸せをおさずけになることにあり、私たちの真心が通ずるならば、どのような願いでも必ず一願は成就するといわれています。